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SPECIAL

2023.10.20

コマリ様執筆!いちごミルクの方程式

いちごミルクの方程式
テラコマリ・ガンデスブラッド

 いちごミルクのような恋をしてみたいと思った。

 甘くてまろやかで、ぴりりと舌をいじめる刺激は少しもなくて、どこまでも温かく、穏やかな、陽だまりのような恋のことだ。

 物語の読みすぎだって笑われるかもしれない。

 そんな恋なんてあるわけないって言われるかもしれない。

 私も最初はそう思ってた。

 だけど――あの人に出会ってから、私の世界は本当に、いちごミルクみたいなピンク色に染め上げられてしまったんだ。

 もちろん、そんな都合のいい幻想に身をゆだねることはできない。

 一歩踏み出すことに戸惑いを感じている。

 踏み出せないことにもどかしさを覚えている。

 そもそも、私は塔の中に閉じ込められているからだ。

 問題を解かなくちゃ、外に出ることも、いちごミルクの恋が成就することもないんだ。

 そう…………私は縛られている。

 オムギュンギュンの呪いに。

 ☆

 私の人生は、方程式のように綺麗にはできていない。

 右辺と左辺が合っていないのだ。

「お前はミルポーワ家に相応しくない! 表舞台に出てくるな」

 お父様はそう言った。

 私の名前は『ミミル・ミルポーワ』。

 ムルナイト帝国で有名な貴族、ミルポーワ子爵家の三女だ。

 だけど、私は小さい頃からずーっと、この『オムギュンギュン塔』に幽閉されている。

 ミルポーワ家のご先祖様が建てた塔で、その形が細長いオムライスに似ていることから、『オムギュンギュン』という名前で呼ばれているらしい。

 もちろん、自由に外出することは許可されていなかった。

 ご飯とか、それ以外で生活に必要なものとかは、ミルポーワ家のメイドが一週間に一回運んできてくれる。

 でも、娯楽が全然ない毎日だから、そのうち変になってしまう気がする。

 それに、甘いものを全然届けてくれないのだ。

 塔の外にいた頃はお菓子やケーキが食べられたけど、今ではもう自由に食べることができなかった。

「はあ………。ぜんぶ、私が醜いからいけないんだ」

 何故こんなことになったかというと……

 私はミルポーワ家の中でもちょっと、いや、かなり容姿に問題があるらしいからだ。

 どのくらいかというと、私の顔を直視した人がびっくりして気絶するくらいだ。

 私の前でバタバタ人が倒れていく光景を、小さい頃から何度も目撃したことがある。

 だからお父様は私のことを腫れ物扱いし、表舞台に出ることを禁じた。

 だけど、一つだけ救済措置があった。

「オムギュンギュンの呪い……」

 私の手元には、難しい方程式が書かれた紙があった。

 お父様が出した課題だ。

 これを解くことができたら、塔に施されている封印魔法が解除されて、私は自由に外出することができるようになる。

 なので、私はこの方程式を『オムギュンギュンの呪い』と呼んでいた。

 本当に難しい、これは。

 これでも頭は悪くないほうだと思っているのだけど、塔に幽閉されてから三年も経つのに、全然解くことができていない。

 これをこっちに代入して、するとあっちがああなって………

 ああもう! わからない!

 あまりに難しい問題に、私は羽ペンを放り投げてベッドに倒れ込んだ。

 たぶん、お父様は最初から解かせる気がないんだ。

 すると、枕に顔を埋めている私に近寄ってくる気配がした。

「むきゅきゅー!」

「わっ、ジョゼフィーヌ! くすぐったいよー!」

「むきゅ~! きゅ!」

 私に頬擦りしてきたのは、フワフワと宙に浮かんでいるイルカだ。

 彼女の名前はジョゼフィーヌ。

 全長は私よりもちょっと小さいぐらい。

 何を隠そう、ジョゼフィーヌはもともとイルカ型の抱き枕だったのだ。

 精霊の加護のおかげで意志を獲得し、フライングイルカへと進化した。

 この閉塞された世界の中で、ジョゼフィーヌが唯一の友達だった。

 私が落ち込んでいたりすると、こうやってすぐに駆けつけてくれる、優しい子なのだ。

「ありがとうジョゼフィーヌ。お前がいてくれてよかったよ」

「むきゅ~!」

「ねえジョゼフィーヌ、私はこの塔を出られるのかな?」

「無論である。貴女様の努力は必ず報われるはずだ」

「そうだよね。……うん、頑張らなくちゃ」

「むきゅきゅー!」

 ジョゼフィーヌに励まされ、私はギュっと拳を握った(※ちなみにジョゼフィーヌは25%の確率でしゃべる)。

 でも……すぐに私は不安になってしまった。

 こうして幽閉されることになったのは、私の容姿が醜いからだ。

 たとえオムギュンギュンの呪いを解いたとして、それは本当に幸せなのだろうか。

 外に出ても、誰も私のことを愛してくれない――という展開が想像できてしまう。

 ……ううん、ダメだ、ダメだ。

 マイナス思考はやめよう。

 この方程式を解くことだけを考えなくちゃ。

 その時、さわさわさわと風が吹き抜けていった。

 あれ、窓開けてたっけ?

 不思議に思って振り返ると………。

 シュバッ!!!

 黒い影のようなものが部屋に飛び込んできた。

「え!? 何……!?」

「――ようやく見つけた。お前がミミル・ミルポーワだな」

 窓から飛び込んできて部屋の中に着地したのは…………風にマントを靡かせながら立っている青年だった。

 満月を象った〝望月の紋〟があしらわれた軍服を着ている。

 背は高く、18センチを超えている。

 151センチの私からすると、見上げなければ顔が見えないほどだった。

 髪は色素が薄く、陽の光に透けてきらきらと輝いているように見える。

 蒼玉と吸血鬼のハーフなのかもしれなかった。

 そしてその人は、恒星の光のように力強い瞳で私をジッと見据えていたため私は氷のように固まってしまった。

 何だろう、この人、不審者?

 どうして私の部屋に侵入してきたのか分からない。

「な、何をしに来たんですか……? ここはオムギュンギュン塔ですよ……?」

「俺の名前はパトリック・ナイトレッド。お前をこの塔から連れ出しに来た」

「え? え……?」

 パトリックと名乗った男の人は、私のほうにゆっくりと近づいてくる。

 手足が長くてすらっとしており、不審者だというのも忘れて思わず見とれてしまうほどだった。

 ――……って、この人今何て言った!?

 私を連れ出すとか言わなかった!?。

「どういう意味ですか!? 通報します! お父様に言いつけたら、すぐにでも兵隊さんが駆けつけてくれるはずですから!」

「そんなことをしても意味はない。俺は七紅天大将軍だ。兵隊はすべて俺の指揮下にある」

「そ、そんな……!」

 私はじりじりと後ずさった。

 この人は、たぶん私のことを誘拐しにきたのだろう。

 醜い私なんかを誘拐しても意味はないと思われるかもしれないが、これでも私は帝国で有数の大貴族ミルポーワ家の娘だ。

 私を人質にすれば、莫大な身代金が手に入ることは想像がつく。

 いや、でも、七紅天大将軍がそんなことをするだろうか?

 でもでも、この人の目はオオカミの目をしている。

 きっと私は食べられてしまうのだろう。

 思えば、生まれてから本当にろくなことがなかった。

 醜いからという理由で幽閉され、無理難題の方程式を押し付けられ、自由に外に出ることも許されない灰色の日々だ。

 ああ、なんて散々な人生――――

「や、やめてください。悪いことはよくないと思います……」

 私はパトリックを非難しながら、慌ててその場から逃げようとした。

 ところが。

 バッ、と、いきなりパトリックが私の目の前にひざまずいた。

 私はびっくりして固まる。

 しかもあろうことか突然私の手を握り、まっすぐな瞳で、こんなことを言った。

「ミミル・ミルポーワ。俺の妻になってくれ」

「…………ふぇ?」

 つ、妻?

 えええええええっ?

 ☆

「これは政略結婚だ。俺はそれなりに有名な貴族の家の出身なんだが、父君が『そろそろ妻を見つけろ』とうるさくてな。お前がちょうどいいと思ったんだ」

 パトリックは私の部屋の壁に背中を預けて腕を組みながら、あまりにも尊大にそんなことを言った。

 ちなみに私は毛布にくるまりながら、猫のように警戒心をマックスにしながらパトリックを怖い顔で睨みつけていた。

 ジョゼフィーヌも私の隣に浮きながら見守ってくれている。

 貴族だから政略結婚があるのは分かるけど、『ちょうどいいから』って、私をいったい何だと思ってるんだ。

「そ、それって、お父様の許可をもらってるんですか……?」

「お父様? ……ああ、ダヌマーン・ミルポーワ子爵のことか? 許可はもらっていない」

「駄目じゃないですか! これは不法侵入です!」

「関係ない」

 パトリックは鋭い瞳でじーっと私を見つめてきた。

 そのルビーみたいな光にさらされ、私はカチンと動けなくなってしまった。

「俺のナイトレッド家は、お前のミルポーワ家よりも家格がはるかに上だ。ダヌマーン子爵には逆らうすべはない」

「だ、だけど」

「もちろんお前も逆らうことはできない」

 パトリックが近づいてきた。

 私はうろたえながら、それでも言葉を捻り出した。

「どうして私なんですか。あなたなら他にもっと素敵な候補がいると思います……」

「お前じゃなきゃ駄目なんだ。何故なら――」

「何故なら?」

 パトリックはちょっと言い淀んだ。

「……お前が美しいからだ。俺に相応しいのはお前しかいなかった」

「そんな変な話が信じられると思っているのですかっ」

 だって私は世界一醜い吸血鬼なのだ。

 やっぱりこの人は、私のことを口八丁手八丁で騙そうとしている。

「……私は世界一醜いんです。お父様だってそう言ってました。実際に、私の顔を見た人が何人も気絶しました」

「自分の顔を鏡で見たことがないのか?」

「それは……あります。毎日見てます。でも感覚がマヒして分かりません。自分の顔の美醜なんて、自分では分からないものだと思います。だから私は客観的な評価に従って自分のことを醜いと決定しているのであって」

「いいや。お前は美しい」

「ふぇ……」

 いつの間にかパトリックが目に前にいて、私の腕をぎゅっと握った。

 あまりに強引だったので、私は身動きがとれない。

「あ、あ、あ。あ、ありえませんっ! どうかしてます!」

「では言葉を変えようか。もちろん見た目も美しいが、お前は中身が美しい。聞いた話だと、お前は父親から出された方程式を律儀に解き続けているらしいな?? そんなことができるお前の心は美しいんだ」

 どうやらパトリックは私の事情を知っているらしかった。

 美しいだなんて……そんなことを言われたことがなかったのでどんな反応をしたらいいのかよく分からずに戸惑ってしまった。

「あ、あの……ひゃっ//」

 そのまま強引にベッドの上に押し倒されてしまった。

 な、何だこれ……?

 すぐそこにはパトリックのきれいな顔があった。

 心臓がマグニチュード15くらいの勢いでバクバクと暴れ出した。

 男の人の力で腕をつかまれているせいで、もうどこにも逃げることができない。

「ミミル。こんな塔からはすぐに出るといい」

「無理です、オムギュンギュンの呪いを解かなければ……」

「そんなものは俺が切り伏せてやる。……さあミミル、お前のいちごミルクを俺にくれ」

 パトリックが身動きのとれない私に向かってゆっくりと顔を近づけてきた。

 きらりと光る牙が見えた。

 この人、私の血を吸うつもりなんだ……

 吸血行為は、貴族階級においては婚約にも等しい効力を持っている。

 でも、心の準備は全然できていなかった。

 だって、パトリックは出会ったばかりの見ず知らずの吸血鬼なんだ。

 私の塔に土足で踏み入って、いきなり迫ってくるなんて、言語道断の蛮行だ。

 私は、大きく息を吸うと……――

「だ、だめー!!」

「きゅきゅ~~~~!!」

 私の絶叫に応えたイルカのジョゼフィーヌが魔法を発動した。

 単純な水流魔法だが、精霊の加護を受けたジョゼフィーヌはすさまじい魔力を持っている。

「なっ!?」

 パトリックが驚愕して飛びのいたが時はすでに遅かった。

 大量の水流が猛烈な勢いの馬群のような勢いで発射され、パトリックを呑み込んで窓の外に放り出してしまった。

 私はびっくりして窓のほうに駆け寄った。

 さすがにやりすぎたんじゃ……と思ったけれど、塔の外――アジサイが咲いている庭のあたりで、ずぶ濡れになったパトリックはぴんぴんしていた。

 さすがは七紅天大将軍といったところか。

 無事のようなのでほっと胸を撫で下ろしながら、私はあかんべーをしてやった。

「あなたみたいなケダモノは嫌いです! 妻なんかにはなりません!」

 しかしパトリックは、不敵に笑ってこんなことを言った。

「面白い女だ。お前のいちごミルクは必ず手に入れてみせる」

「もう来るなーーーーー!!」

 枕を放り投げてやると、パトリックはそれを華麗に回避して去っていった。

 彼の後ろ姿を見つめながら、私はは~と溜息を吐いてその場に座り込んでしまった。 

 なんなんだ、あいつ。

 人の気持ちを完全に無視しやがって。

 でも――マトモに人と話したのはいつ以来だろうか。

 食料を届けてくれるメイド達とは事務的な会話しかしていないから。

 ――ミミル・ミルポーワ。俺の妻になってくれ。

 思い出すと何故か鼓動が加速する。

 これは不審者目撃したことに対する動揺みたいなものだ。

 そう思うことにしておいた。

 ☆

 翌日になった。

 あんまり味のしないお昼ご飯を食べた後、机に向かって黙々と方程式を解いている。

 この呪いを打ち破ることができた時、私は自由の翼を獲得することができるのだ。

 頑張って問題に取り組まないといけない。

 ところが、一時間ぐらい集中していたところで、不意に『コンコン』と窓をノックするような音が聞こえてきた。

 不審に思って振り返ってみると、ありえないことに昨日の七紅天、パトリック・ナイトレッドが窓の外をフワフワと浮いていた。

「何でいるんですか!? ここ地上250階なんですけど……!?」

「浮遊魔法だ。……昨日はすまなかった。今日は強引なことはしないから、開けてくれはしないか」

 私は知らんぷりをした。

 窓を勝手に開けないのを見るに、少しは心を入れ替えたのかもしれないが、それでも私は昨日の蛮行を忘れてない。

 勝手に人に部屋に押し入って、血を吸おうとするなんて――すごく変態!

「ミミル。少々話がしたいだけなんだ」

「ファーストネームで呼ばないでください。警察を呼びますよ」

「今日はプレゼントを持ってきた。よければ受け取ってくれ」

「金銀財宝なんていりませんっ。私は象箸玉杯とは無縁で清貧な性質なんです」

「いいや、『メゾン・ド・ソレイユ』のケーキだ」

「…………」

 方程式で疲労していた私の脳味噌が、糖分を求めて勝手に身体を動かし始める。

 『メゾン・ド・ソレイユ』は帝都でいちばん有名なケーキ屋さんだ。

 ミルポーワ家にいた頃に食べたことがあるけれど、本当にほっぺたが落ちるくらいに甘くて美味しかった。

 だめだ、だめだめ。

 甘いものにつられるなんて。

 でも、ケーキをもらって追い払えばいいんじゃない?

 いやだめだ、それだとパトリックに失礼な気がする……いやいや、パトリックのほうが十分失礼なんだけど……

 私はそれから一分たっぷり悩んだ。

 そして導き出した解答は……

 ☆

「何だ。ケーキにつられるなんて、意外と単純なんだな」

「つられてませんっ」

 ああ、馬鹿だ。

 ケーキにつられるなんてほんとに馬鹿。

 これは言い訳になってしまうが、オムギュンギュン塔に来るメイドさん達はお菓子を全然届けてくれない。

 だから、私は常に甘味に飢えていた。

 イチゴが乗ったケーキを食べながら、私はちらりとパトリックを観察した。

 今日は襲ってくるつもりがないのか、ちょっと離れたところで、腕を組んで私のほうを見つめている。

 目が合い、思わず目をそらしてしまった。

「美味しいか?」

「はい。ありがとうございます」

「食べている姿も可愛らしいな。ハムスターみたいだ」

「~~~っ!」

 何を言ってんだこの人、私がハムスターだなんて…………ハムスターのほうが百億倍可愛いだろ。

 やっぱり失礼だ、野蛮だ、オオカミだ。

「……何しに来たのですか。もう来るなって言いましたよね」

「昨日のことを謝りたかったんだ。さすがにあれでは不審者も同然だ」

「今でも不審者ですけどね」

 七紅天大将軍っていうのは嘘じゃないんだろうけど、この様子だと帝国軍でも浮いているに違いなかった。

「昨日も言ったが、俺はお前のことを妻にしたいと思った。だからお前をこの塔から連れ出そうと考えているのだが、そう簡単にはいかないらしいな」

「当たり前です。私はお父様から方程式を出されているのです」

「オムギュンギュンの呪い――か。俺にちょっと見せてくれないか」

 見せて減るものではないので、私は机の上に広げてある紙を指差した。

 パトリックはそれを矯めつ眇めつ確認すると、なるほど、と溜息を吐いて苦笑した。

「これは難解だな。数学者でもないと解けないんじゃないか」

「でも解かなくちゃいけません。でないと外に出ることができないから……」

「ミミル、お前はどうして自分が幽閉されているのか分かっているのか」

「昨日も言いましたよね。私は醜いから幽閉されているんです」

「ダマヌーン子爵がそう言ったのか?」

「はい。お前はミルポーワ家には相応しくないって……思い出させないでください、こんなこと」

「そうは見えないがな」

「ひゃあっ」

 パトリックが至近距離で私の顔を観察してきたので、私はフォークを落として椅子から転げ落ちそうになってしまった。

 すかさずパトリックが私の腰に手をやって支えてくれる。

 それを一瞬で振り払うと、私は壁際まで逃げてパトリックを威嚇した。

「ち、近寄らないで! あなたはケダモノです!」

「別にケダモノでも構わないさ。ミミルをこの塔から連れ出すことができるのなら」

「そんな……」

「だが、強引な手段をとると嫌われてしまうな。ゆっくりと誤解を解いていきたいところだ」

「誤解じゃありません! ケダモノ!」

「それは誤解じゃない。誤解というのは――――お前が自分のことを『醜い』と思い込んでいる事だ」

 トンチンカンすぎてパトリックの言葉を理解するのに2.5秒弱必要だった。

 そういえば、この人は昨日も私のことも『美しい』って言っていた気がする。

「……美醜の感覚がおかしいのですか?」

「俺は絵画コンテストで優勝するほどの審美眼の持ち主だ」

「では、その絵画コンテストの審査員の方は体調が優れなかったのでしょうね」

「ふっ。相変わらず面白いな。俺にそんな態度をとる女性は初めてだ」

「…………」

「俄然興味が湧いてきた。お前も俺のことを気に入ってくれると嬉しい」

「気に入りません、あなたような変態なんて」

「もう混ぜておいたぞ。惚れ薬」

「えっ」

 私は大慌てで皿を見下ろした。

 まさか……ケーキに!?

 ところが、パトリックはアハハハと大笑いをした。

「嘘だ。そんな卑怯な手は使わないよ」

「なっ、この……!」

「今日のところは退散しよう。だがお前の心を開くまで、俺は何度だって通うさ。ミミル・ミルポーワは、こんな塔で腐っていて良い吸血鬼じゃない」

「どっか行ってしまえーーーー!!」

 叫ぶと、パトリックはしなやかに身を翻して窓から飛び降りてしまった。

 普通なら心配する高さだけど、飛べるやつに情けをかけてあげる必要はない。

 私は怒りながら踵を返し、ベッドに突っ伏した。

 ……いったいどいういうつもりなんだ、私を美しいだなんて。

 頭の中がぐるぐるする。

 方程式を解くためのエネルギーが枯渇していく。

 ☆

 パトリックは宣言通りに毎日オムギュンギュン塔を訪れやがった。

 最初みたいに不法侵入してくることはなかったが、窓をコンコンされるたびに心臓が飛び出るような思いに見舞われる。

 だったら窓を開けてあげるなよ、というご意見はごもっともだけれど、パトリックは毎回美味しいお菓子を持ってきてくれる。

 ケーキ、どら焼き、マカロン、アイスクリーム、フルーツタルト……

 方程式を解くためには十分な糖分が必要だから、仕方なしに招き入れてあげた。

 いつもパトリックは私がお菓子を食べ終わるまで居座る。

 そして、

「お前は本当は美しい」

「こんなところにいるべきではない」

「俺と一緒に外に出ないか?」

 ……みたいなことを、延々と言って聞かせるのだ。

 私は枕を投げたりして対抗し、ほとんど耳を貸さなかった。

 なーにが『外に出ないか』だ、私はオムギュンギュンの呪いに縛られているって何度も言っているじゃんか。

 でも、パトリックがたまに話してくれる外の世界の話は面白かった。

 特に、七紅天として騎獣に乗って草原を駆け回ったというエピソードは私の心を少しだけ動かした。

「本当に? ムルナイトから白極連邦まで三日で行けるの?」

「ああ。俺の愛竜サンダルフォンにかかれば、一瞬にして風になることができる」

「そっかあ……一度でいいから見てみたいな……」

「俺の妻になればいくらでも乗せてやるぞ」

「そ、その手には乗りません! 私がもなかを食べたら帰ってください」

 パトリックはおかしそうに笑った。

 この人は、何故か私のことを気にかけている。

 オブラートに包んだ言い方をすれば……とんでもなく変わった感性の人。

 私に興味を持ってくれて、ましてやこんなふうに親しげに(べつに私は親しくしてるつもりはないけれど)話してくれる人なんて、今まで一人もいなかった。

 パトリックならば、私の理解者になってくれるんじゃないか……。

 ううん、そんなことはない。

 何か事情があるに違いないのだ。

 だから私は、素直に聞いてみることにした。

「ねえパトリック。あなたは何か隠し事をしているんじゃないですか」

「隠し事? していないさ。――おそらく、お前は俺が何か打算を持ってお前に接しているのだと勘ぐっているんだろ? 安心しろ、俺はお前の美しさに惹かれているだけなんだ」

「…………」

 そうだとは思えなかった。

 そうだったとしても、いずれパトリックも私に愛想を尽かすだろう。

 だって私は、世界の誰からも見放された、一億年に一度の醜い少女なのだから。

 ただ、最近はパトリックのおかげで少し楽しかった。

 お菓子も食べられるし、ちょっとした話し相手にもなってくれる。

 まあ、この人は変態のケダモノだけどね。

 それはとにかく、お父様に認めてもらうために方程式を解かないと。

 ☆

「きゃあ! パトリック様よ!」

「パトリック様~! こっちを向いて!」

「ああっ! 冷たい目で一瞥されちゃった!」

「あれが『氷の王子』の魔性の瞳よっ! くらくらしちゃう……」

 宮殿を歩いていると、そこかしこから黄色い声が投げかけられた。

 俺はそれらを丸ごと無視しながら、帝国軍の庁舎に向かって歩く。

 俺の名前は――パトリック・ナイトレッド。

 帝国軍第七部隊の七紅天にして、ムルナイト帝国でもっとも栄誉ある公爵家、ナイトレッド家の嫡男だ。

 地位と実力を目当てにしてくるような人間に、ろくなやつはいない。

 俺に相応しいのは、やっぱりオムギュンギュンの――――

「――すごい人気ですな。少しは分けてほしいくらいですぜ」

 俺の脇を随行していた部下(巨大な熊の獣人だ)が、ニヤニヤと笑いながらからかってきた。

「俺はああいう人種に興味はない」

「ええ? でも真ん中にいたの、伯爵家のご令嬢ですよ? 『ムルナイトのサファイア』って言われるくらいの別嬪なのに」

「外見をいくら飾ったところで、中身が伴わなければ意味はない」

「はあ~、なるほどなるほど。隊長が興味あるのは例の塔の娘でしたね」

「…………」

 どうしてこいつが知っているのだろうか。

 オムギュンギュンのことは誰にも知らせて居なかったのに……、いや、物好きなこの男のことだ、どうせ隠密魔法を使って後をつけてきたのだろう。

 俺は溜息を吐いた。

「どこまで知っているんだ」

「そりゃほとんど全部。いやだって、気になるじゃないですか! ハチミツのありかよりも百倍気になりますよ! 仕事が終わるとすぐにどっか行っちゃうから、ついていったら――オムギュンギュンですよ。あそこって確か……」

「そうだ。あの塔に幽閉されているのはミルポーワ家の次女、ミミル・ミルポーワだ」

「ほお。あの『氷の王子』の心を動かすたあ、とんでもない娘ですな」

 俺は再び大きな溜息を吐いた。

「調べたなら知っているかもしれないが。……ミミル・ミルポーワは、父ダマナーン子爵によって不当に虐げられている」

「そりゃどういうことですかい」

「ミルポーワ家の次女は、『病気の治療のため』という理由で表舞台から姿を消した。……だがしかし、実際はダマナーン子爵があの子を一家の恥ととらえて幽閉しているのだ」

「何で恥なんですか」

「それは、美しいからに決まっている」

 部下の熊は頭にハテナマークを浮かべて首を傾げた。

 宮殿の者はほとんどミミル・ミルポーワの素顔を知らなかった。

 幽閉される前でもあまり人前に出てくるような少女ではなかったし、写真も出回っていないから、彼女の容貌がどんなものであるかを知る人物は皆無に等しい。

 だが、俺は三年前、ミミルを初めて見て――

 俺は首を振った。

 今は、回想に耽るのではなく、ミミルを塔から連れ出してやることが重要だった。

 あいつの心を動かすことができさえすれば、塔から出すことは簡単なのだ。

「隊長、今日は一緒に筋力トレーニングして帰ります?」

「いや。俺には行くところがある」

 熊は、ヒュウと口笛を吹いた。

 ☆

 夜半、ミルポーワ邸では話し合いが行われていた。

 ミルポーワ家当主、つまり、ミミルの父――ダマナーン・ミルポーワ子爵は、ふかふかの豪華な椅子に腰かけながら、部下の報告を聞いていた。

「なに……!? オムギュンギュン塔に不審者が出没しているだと……!?」

「左様。その不審者の名は、パトリック・ナイトレッド――ナイトレッド公爵家の嫡男です」

「なに……!!」

 ダナマーン子爵は驚愕して椅子から立ち上がった。

 しかしすぐに座り、頭を抱えて悶々と悩み始める。

「不審者が出ていることは承知していたが……まさかそれがナイトレッド家の小僧だったとは。ナイトレッド家は我がミルポーワ家よりもはるかに格上、こちらが文句を言うこともできぬ……!」

「どうしますか。戦いますか」

「馬鹿を言え、相手は帝国最強の七紅天だ! 命がいくつあっても足りない! ……それで、ナイトレッド将軍はミミルに手を出したというわけか……?」

「手を出そうとしている、とするのが正解でしょうか。あの男はミミルを塔から無理矢理連れ出して、自分の妻にしようとしているようです」

「な、何!? 妻だと!? それは……それは…………ゆ、許せん!」

 ダナマーン子爵はまなじりを吊り上げ、怒りの感情をあらわにした。

 蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、不気味な影をダナマーン子爵の顔に落としている。

「……で、どんな具合なのだ」

「ミミルはお菓子で懐柔されかかっております」

「あの愚かな娘め~!」

 ダナマーン子爵にとって重要なのは、ミミル・ミルポーワがずっと表舞台に立つことなく引きこもっていることだった。

 パトリックを放置すれば、ダナマーン子爵の思い通りにはいかなくなる。

 かといって、パトリックは格上の公爵家。

 しかも七紅天だから、どんな手を尽くしても止められるとは思えなかった。

 となると、こちらにできることは――……

 ダマーン子爵は溜息を吐いて言った。

「分かった。作戦を変更しよう」

「いいのですか」

「これしかないからな。――下がっていいぞ、ジョゼフィーヌ」

 こうして、ミミルの頭上に暗雲が立ち込める。

 ☆

 精神統一をして今日も問題に取り組む。

 しかし、いつパトリックが来るか分からないからなかなか集中できなかった。

 あの人は、たぶん七紅天としての仕事が終わる午後に顔を出すことが多いのだけれど、たまに午前中とかにひょっこり現れるから気が抜けない。

 べつに、楽しみにしているわけじゃないよ。

 お菓子を持ってきてくれるから、糖分補給に有効活用しているだけだ。

 でも、あんまり食べすぎると太ってしまうから毎日来られると困ってしまうな(ちなみに私は運動不足を解消するために魔法石で動くルームランナーを愛用しているので、普段から健康には気をつかっている。体重もこの一年くらいで少し落とすことに成功したので、醜さはともかく、スタイルはけっこういいほうなんじゃないかと自負している)。

「きゅきゅ~!」

 その時、ジョゼフィーヌが何者かの気配を察知して空中を泳ぎ始めた。

 続いて、ピンポーン、と、オムギュンギュン塔に取り付けられたインターホンが鳴る。

 パトリックが来たんだろうか。

 と思ったけど、あの人はもっぱら窓から入ってくる。

 じゃあミルポーワ家のメイドが食料を届けに来たのだろうか――――?

 私は不審に思ってエレベーターで一階まで降りていった。

「なっ……あなたたちは……!」

「ミミル様。お迎えにあがりました」

 塔のエントランスホールで待ち構えていたのは……ミルポーワ家の兵士達だった。

 人数は百人くらいで、その全員がサングラスをかけている。

 私の醜さを直視すると気絶してしまうから、防御策のようなものだ。

 それにしても……お迎えだって?

 いったい何を言ってるんだろう?

「ダマヌーン子爵からのご命令です。これ以上、ミミル様をオムギュンギュン塔に幽閉しておくことはできない――よって、ミミル様を『ナッパヌッパ監獄』に移送したいと思います」

「え……!? ナッパヌッパ監獄に……!?」

 ナッパヌッパ監獄――

 それは、ムルナイト帝国の果てに存在する広大な監獄のことだ。

 世界各地の凶悪犯罪者たちが収監されており、一度入ったら二度と出てこられないという、あの……

「お、おかしいです! 私が何か罪を犯したとでもいうのですか!?」

「しかし、ダナマーン子爵のご命令ですので……」

「お父様とは約束したんです! 方程式を解けば、このオムギュンギュン塔から出してくれるって……!」

「うるさいなぁ」

 サングラスをかけた兵士が、面倒くさそうに頭をぽりぽり掻いた。

「自分の立場が分かっていないのか? あんたはダヌマーン子爵に見捨てられたんだ。ちょっと考えてみればわかるだろ、普通、娘をこんな辺鄙な場所の塔に幽閉しておくことなんかあり得ない」

「そ、それは……そうだけど…………」

「そうだ、あんたは愛されていないんだよ。たとえ方程式を解いて外に出たとしても、薔薇色の未来が開けているわけがないのさ」

 手が震えてきて、私はその場でうつむいてしまった。

 もちろん分かっていた。

 私は誰からも愛されていないんだ。

 だけど、それにしても、お父様の仕打ちはちょっと行き過ぎだ。

 醜いのがそんなにいけないのだろうか?

 私がミルポーワ家にいたら、たくさん迷惑がかかるから?

 目元に涙が浮かんでくるのを感じて、慌ててハンカチで拭おうとした時、サングラスの兵士たちが突然私の両腕をつかんできた。

「な、何するの! 離してよっ……!」

「大人しくしろ! 暴れると痛い目をみるぞ!」

「ジョゼフィーヌ! 助けて!」

 私は救いを求めて振り返った。

 でも……

 ジョゼフィーヌの姿はどこにもなかった……。

 一階に来る時までは一緒にいたはずなのに、いつの間にか姿を消していた。

「どこにいったんだ!? ジョゼフィーヌ……!」

「おいこら、暴れるなって――うご」

 私の手が、兵士の顔面あたりにぶつかってしまった。

 すると、彼のかけていたサングラスが跳ね飛ばされて床にカラリンと落ちる。

 次の瞬間のことだった……

「う、があああっ!」

 私の顔を直視した兵士が、まるで猛毒でも呷ったかのように苦しみだした。

 そして、その場にうずくまり、目を回してバタンと倒れ込んでしまったのだ。

 リーダーらしき兵士が怒鳴った。

「おい馬鹿! あれほどサングラスを接着剤でこめかみに固定しておけと言ったのに! ミミル・ミルポーワの顔を直接見たらそうなることは分かっていただろう!」

 あまりにもショックすぎて、私は言葉を失ってしまった。

 私の醜さは折り紙付きだけれど、こんなに凶悪だとは自分でも思っていなかった。

 あはは。

 やっぱりお父様の判断は正しかったんだ。

 こんなの歩く殺人兵器だよ。

 監獄の奥底で、ゆっくりと朽ち果てていくのがお似合いなんだ。

 全身から力が抜けて、その場に体育座りをしてしまう。

 もう抵抗する気力もなかった。

 ごめんなさいお父様、迷惑をかけてしまって。

 もう外に出てくることはありませんから、安心してください。

 ☆

 その頃、俺、パトリック・ナイトレッドは――いつものようにオムギュンギュン塔まで足を運んでいた。

 相変わらずオムライスのような形をした変な塔だな。

 しかし、俺は少し様子がおかしいことに気がついた。

 ミミルの気配が全然感じられない。

 探知魔法を使ってみても反応しなかった。

 大急ぎで浮遊魔法を使っていつもの窓まで飛翔してみると――彼女の部屋はもぬけの殻となっていた。

「どういうことだ……?」

 まさかミミルがオムギュンギュンの呪いを解いて外に出たのだろうか。

 いや、それは絶対にありあえない。

 だってミミルは…………

 そこでふと、東のほうの草原に、わずかにミミルの魔力を感じた。

 さらに、塔の前にはわだちの跡があるのを発見する。

 昨日は雨が降ったから、足跡や馬車の跡がよく残るのだ。

 これらの情報から総合的に判断すると、状況はとんでもなく悪い方向に転がっている最中らしかった。

「くそ。ダナナーン子爵め……」

 俺は舌打ちをしてしまった。

 あいつをこれ以上悲しませることは、俺が許さない。

 ☆

 私はそのまま兵士たちに縛られて荷物のように馬車に積まれてしまった。

 手足を頑丈な縄で縛られ、身動きをとることができない。

 でもそれでもよかった。

 抵抗しても意味はないし、仮に逃げ出すことができたとしても、行く当てなんてどこにもないのだから。

 お父様の言う通りに監獄へ行く道しか残されていない。

 結局、これまで頑張って来たことは全部、無駄だったんだ…………

「お、目が覚めたか。ミミル・ミルポーワの顔面を見てしまうとは災難だったなお前。大丈夫か」

「はい……大丈夫です」

 涙を堪えながらジッとしていると、声が聞こえてきた。

 私が意図せず気絶させてしまった兵士が覚醒したようだ。

「……いやしかし、あれは本当にすごい姫君ですね。ダヌマーン子爵が隠しておきたくなるのも頷けますわ」

「そりゃそうだろう。お前、あの事件を知っているか?」

「事件? ミミル様が何かやらかしたんですか?」

「ああ。三年前、12歳になったミミル・ミルポーワは宮廷デビューすることになったのさ。だがその時、ミミル・ミルポーワの顔を見た高級貴族たちがいっせいに気絶してしまったんだ。ダママーン子爵はこれがきっかけで娘を幽閉することになったのさ」

「なるほど。それは災難でしたね」

「あの容姿だ、仕方ないさ」

「本人は方程式を解けば外に出られると思って頑張ってたんでしょ? 外に出たって普通の生活は送れないでしょうに。可哀想ですねー」

 堪えていた涙があふれてくるのがわかった。

 もうだめだ。

 このまま眠ってしまおう。

 すべて悪夢ということにしてしまう。

 しかし、その時、馬車が急にガクンと止まった。

「何だ!? おい馭者! どうなっている!」

「わかりません! しかし馬たちが動かないのです!」

「何だと……!」

 いったい何が起きているのか全然分からなかった。

 私は馬車が揺れた衝撃で強制的に覚醒を促され、悲しみの感情の尾を引きながらゆっくりと頭上を振り仰いだ。

「――ミミル。無事でよかった」

 どこからともなく声が降って来た。

 直後、どかあああん、と、馬車の幌が破壊されて何かが降ってきた。

 私のすぐそこに着地したのは――――

「パトリック!? どうして……」

「お前を助けに来た。こんなやつらに従う道理はない」

「な……」

 陽光を受け銀髪がきらきらと輝いていた。

 いつものように変態っぽさは感じられず、真摯な瞳でまっすぐ私を見据えている。

 差し伸べられた手を見つめて、私は感極まってしまう。

 なんで。

 どうして……私のところに来てくれたのだろう。

 すると、パトリックは剣を優雅に一閃。

 私を縛り付けていた縄が糸こんにゃくのように断ち切られ、私はしばらくぶりの自由を取り戻した。

「どうして……! どうして来たの!? この人たちはお父様の私兵……もし逆らったらあなたの身が危ないです!」

「構うものか。ナイトレッド家のほうが家格は上だから、ダマヌーン子爵の権勢など恐れるに足らない」

 そうかもしれないけど……!

「貴様! いったい何者だ!?」

「我々がミルポーワ子爵家の兵士だと知っての狼藉なのか!?」

 兵士たちが武器を構えてパトリックのほうを睨んだ。

 しかし、パトリックは全然臆した様子も見せずに鼻で笑っていた。

「有力貴族を敵に回すくらい安いものだ。ミミルを闇の中から連れ出すことができるのなら」

「ふざけたことを…………ん? いや待て、こいつ…パトリック・ナイトレッド七紅天大将軍ではないか!?」

 パトリックの正体に気づいた兵士たちが狼狽えていた。

 ナイトレッド家はムルナイト帝国におけるナンバー1の貴族家系だ。

 いくらミルポーワ家であっても、真っ向から対立すれば痛い目に遭うことは確実。

「立場の違いが分かったか。ならばミミルを置いて去れ」

「うぬぅ! ふざけるな! そんなことをしたら――我々がダママーン子爵から暇を出されてしまうではないかぁっ! 行くぞ貴様ら!」

「「おおおお!!」」

 兵士たちが剣を持って襲いかかって来た。

 相手の数は百人くらいだ。

 いくら天下の七紅天大将軍とはいえ、この数の相手をするのは無理寄りの無理だ。

「パトリック!」

「心配するな」

 しかし、パトリックは私を庇うようにして敵達に立ちはだかると、凍てつくような魔力を剣先に載せ、それを一気に解き放った。

 兵士たちが悲鳴をあげて吹っ飛んで行った。

「くそ! ひどい目にあわせてやる!」

 冷気をガードしたやつが我武者羅に剣を振り回して突撃してきた。

 パトリックは不敵な笑みを浮かべると、その場で跳躍し、華麗な舞踊のようにしなやかな動作で剣を振るい……次から次へと流れるように兵士たちを切り伏せていった。

 あまりに流麗な動きだったので、私は言葉を失って見惚れてしまった。

 やっぱり七紅天大将軍は強い。

 パトリックはただの不法侵入者じゃなかったんだ……

「いくぞミミル!」

「えっ、きゃ……!?」

 いきなり腰に腕を回され、抱きかかえられてしまった。

 ってこれ……お姫様だっこ!?

「やめてください! こんなことしたら……」

「抵抗するな。お前は俺が攫って行く」

「ええええええええ!?」

 パトリックは私を抱えたまま馬車からジャンプすると、淀みのない動作で草原に着地して走り始めた。

 背後からは兵士たちの魔法がビュンビュンと飛んでくるが、パトリックは少しも気にした様子がない。

 しばらく走ると、一頭の紅竜が待機しているのが見えた。

 紅色の鱗を持った、大きな個体だ。

 パトリックはその紅竜の前で停止すると、私を抱きかかえたままいきなり紅竜の背中へと飛び乗った。

「わあっ!? こ、この子は……!?」

「俺の愛竜サンダルフォンだ。ミミルも乗りたいと言っていただろう」

 パトリックが指示を出すと、サンダルフォンは『グルー』と大きな嘶きを発してから走り出す。

 私が前、パトリックが後ろなので、背中から包み込まれるような格好だ。

 彼の温もりがじかに伝わってきて、私は借りてきた猫のように固まってしまった。

「どうして来たの!? 私をどこに連れていくつもりですか!?」

「外の世界だ。お前はあんな塔にいていい吸血鬼じゃない」

「塔にいなくちゃならないのは当然なんです。私は世界で一番醜いから……」

「違う。お前は美しい」

「だから、何の根拠があってそんなことを!」

「俺は三年前――幽閉される前のお前に会ったことがある」

 パトリックはサンダルフォンを駆りながら、苦い過去を反芻するような口調で言った。

「宮廷でのパーティーのことだった。お前は初めて貴族会でデビューすることになり、そして同じく貴族の子息であった俺と出会った。……だが、俺はお前の顔を見るなり気絶してしまったんだ」

「まさか……あの時の子……?」

 記憶が徐々に掘り起こされていった。

 三年前のパーティーの日、私はその醜さから人を傷つけてしまったんだ。

 それ以来、怒ったお父様は私のことを疎外するようになった。

 あの時の被害者がパトリックだったなんて。

「そうだ。そして俺が気絶してしまったせいで、ミルポーワ家は窮地に立たされることになった。俺の父親は、『ナイトレッド家の大事な子息に傷をつけるなど言語道断』と言って、ミルポーワ家に落とし前をつけるように要求した」

「だから、私は幽閉されることになったのですか」

「ああ。だが幽閉が決定される前、お前は宮殿で寝込んでいる俺をお見舞いしてくれた。覚えているか? 『大丈夫? はやくよくなってね』……と心配そうに何度も声をかけてくれたんだ。ナイトレッド家の無機質な教育にさらされてきた俺にとって、その美しい優しさは心に深く染み渡った……」

 背中から温もりが伝わってくる。

 それは陽だまりのような温もりだ。

 オムギュンギュン塔の冷たさとは真逆の……

「だが、お前は俺が気絶してしまったせいで幽閉されることになった。いくら父上にミミル・ミルポーワは無実だと訴えても聞き入れられなかった。だから、俺は研鑽を積み――お前を助けられるだけの力を手に入れ、七紅天になったんだ」

 サンダルフォンが加速する。

 草原を抜け、やがてムルナイト帝国帝都の城門が見えてきた。

 私は身体を固くしてうつむいた。

「…………事情は、分かりました。でも、私は外に出ることは許されません。オムギュンギュンの呪いを解くことができていませんから……」

「いいや、すでに解けているのだろう」

 びっくりした。

 パトリックは私のドレスのポケットに手を突っ込むと、まるで最初から分かっていたかのような手つきで――――そこにしまってあった紙を取り出した。

 オムギュンギュンの呪い(つまり問題)が書かれている紙である。

 それを広げて見たパトリックは、やはりなとつぶやく。

「お前は聡明な吸血鬼だ。この程度の問題が解けないはずがない」

「か、返してください……」

「いいや。こんなものは不要なんだ」

 パトリックは紙をビリビリに破くと、そのまま後方にパラパラと捨ててしまった。

「何するんですか! ポイ捨ては環境破壊です!」

「解けているのに解けていないフリをしていた理由はわかっているさ。お前は自分に自信が持てないんだろう」

「っ……!」

 図星だった。

 実は、オムギュンギュンの呪いはかなり前に解いてしまったのである。

 だが、私は外に出ることが怖かった。

 またお父様に「お前はミルポーワ家に相応しくない」って言われるんじゃないか。

 私を受け入れてくれるところなんてどこにもないんじゃないか。

 そういう不安が日に日に強大化していき、私の身体は銅像のように固まってしまって――結局、オムギュンギュンの呪いは解けていないことにしてしまった。

 だって仕方がないことなんだ。

 私みたいなダメダメな吸血鬼は、誰にも迷惑のかからない場所でひっそりと今生を終えるのがお似合いなんだから。

「お前のことは俺が受け入れてやる」

「え……」

「俺はお前の心の美しさに惹かれたんだ。だから容姿なんてどうでもいい。俺はこうやってお前を助け出すために七紅天になった。もし少しでも情けがあるのならば、その努力に少しでも報いてはくれないか」

「で、でも……」

「俺はお前を妻にすると決めたんだ」

 背後からぎゅっと抱きしめられた。

 心と体がぽかぽかと温かくなっていった。

 そういえば、パトリックは私を見ても気絶することがない。

 気絶しないように三年間で精神力を鍛えたということなのだろう。

 そうであるならば、私は…………でも。

 私はそれでも一歩を踏み出せずにいた。

「パトリック。私のように醜い吸血鬼と一緒にいたら、あなたに迷惑をかけると思います。だから……」

「いいや。お前は醜くなんかない」

「だから! それはあなたの感性がおかしいからですっ」

「俺の瞳に映るお前の顔は、そんなに醜く見えるだろうか」

 私はおそるおそる振り返った。

 パトリックの紅色の瞳には、死ぬほど情けない顔をした少女がうつっている。

 まさか、でも、そんな……

「お前は醜いから幽閉されているんじゃない。美しすぎるから幽閉されたんだ。まさに一億年に一度の美少女……いや、一京年に一度の美少女だ。お前の顔を見た精神力の弱い者たちは、そのあまりの美しさに酔いしれて我を失ってしまっているだけだ」

 そんなことがあるのだろうか。

 言われてみれば、確かに、私に対して直接「醜い」と言ったのはお父様だけだった。

 不思議に思っていると、やがてサンダルフォンが帝都の市街に突入した。

 住民たちが何だ何だと私たちのほうを振り返る。

 すると…………

「きゃあ! あれは七紅天大将軍の『氷の王子』パトリック様よ!」

「おい見ろ! 将軍の前に、とんでもなく美しい娘がいるぞ!?」

「ぐあああ! 美しすぎるう!」

「あまりの美しさに意識が朦朧としてきた……!」

「ぎゃああああ!」

「目が! 目がー!!」

 私たちが通り過ぎるたびに人がバタバタと倒れていくではないか。

 ただ、私のことを恐ろしがっているという感じではなく、陶酔したように目をハートマークにしてひっくり返っているのだ。

 嘘でしょ?

 パトリックの言っていることは本当なの……?

 私が美しいって……

「分かっただろう。お前はこの世の誰よりも美しいのだ」

「し、信じられないわ……」

「だから心配するな。それでも心配なら、俺が守ってやる」

「~~~~っ!」

 なんてことを言うんだ、この人は。

 今まで私にそんな優しい言葉をかけてくれた人がいただろうか。

 幽閉されてからずっと、私は誰にも愛されることなく生きて死ぬのだろうと思っていたけれど……まさかこんなところに温もりがあったなんて。

 やがてサンダルフォンはミルポーワ邸に到着した。

 三年前まで私が住んでいた、懐かしの屋敷。

 どうしてパトリックはここを訪れたのだろうか。

「お前を妻にするとなった場合、ダヌマーン子爵と話しておかなければならないからな」

「そ、そんな心の準備が……!」

 しかし、パトリックは私を強引にサンダルフォンから下ろした。

 すぐそこには、要塞のようなミルポーワ邸がそびえている。

 だが、門扉のところに何かが佇んでいるのが見えてしまった。

 ふわふわと宙に浮いているイルカ……

「ジョゼフィーヌ!?」

「如何にも」

 ジョゼフィーヌが尾びれを揺らしながらしゃべった。

 25%の確率を引いたのかと思ったが、様子がちょっとおかしかった。

「どこに行ってたんだよ!? 心配したんだからな!」

「ふっ、心配か……この期に及んで呑気なことだな。さすがはミミル殿――否、ミミル・ミルポーワ」

「え……? ジョゼフィーヌ、だよね……?」

「その通り、私はジョゼフィーヌだ。しかし、お前が知っているジョゼフィーヌとは少し違う……ッハアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 ジョゼフィーヌの身体から魔力が解き放たれていった。

 パトリックが警戒して私を庇うようにして前に出る。

 私は信じられない気持ちでジョゼフィーヌを見つめた。

 そして……

 ジョゼフィーヌの腹部から……

 めりめりと何かが生えてきた……

 体だった……。

 まるで人間のようにムキムキとした肉体が、ジョゼフィーヌの腹部から広がっていき、ドシンと両脚で大地を踏みしめた。

 それは、まさにイルカの怪物。

 あっという間に八頭身のイルカ人間に変化してしまったのである。

 パトリックが鋭い視線を向けて言った。

「……そうか。お前は獣人だったのだな」

「その通りだ。そしてミミル・ミルポーワの部屋を監視するために派遣されたスパイ・イルカだ」

「ジョゼフィーヌ、嘘だよな……!?」

「嘘ではない」

 私はガックリと膝をついてしまった。

 あの可愛かったジョゼフィーヌがイルカ人間だったなんて。

 パトリックが険しい顔をしてジョゼフィーヌを睨んだ。

「スパイ・イルカだと? いったい誰から差し向けられたスパイなんだ」

「決まっているではないか。私を派遣したのは――ゴンザレスだ」

 私は再び愕然としてしまった。

 そんな。

 どうして、あの人が……

「聞くまでもなかったようだな。やはりゴンザレスか」

「その通りだ。ゴンザレスはミミル・ミルポーワを監視するための『目』として私を派遣した。元々あったイルカのぬいぐるみは焼却炉に放り込み、かわりに私が抱き枕の地位におさまった。ミミル・ミルポーワ、貴様は愚かよのお。精霊の加護でフライングイルカに進化した、なんていう嘘を、簡単に信じてしまったのだから。ゴンザレスの言った通り、貴様は少々残念な吸血鬼のようだ」

      めも:父親の名前は、覚えづらいのであとでぜんぶゴンザレスにかえておく

「……で、言いたいことはそれだけか?」

「あとはそうだな……『ここでくたばれ』とだけ言っておこうか。ゴンザレス子爵のもとへは向かわせん」

「分かった。――ミミル、気にすることはない。お前の味方はここにいる」

 パトリックに声をかけられ、私は夢から醒めたような気分になった。

 現実のインパクトが凶悪だったので絶望していたけれど、立ち止まる必要なんてどこにもないんだ。

 お父様に無断で塔を出てしまったのだから、私はもう聞き分けの良い子じゃない。

 今更お父様の言いつけを守る必要なんてない。

 パトリックに従って、やりたいようにやればいい。

 私は涙を拭って立ち上がった。

「だいじょうぶ。私は挫けない」

「ふっ。それでこそミミル・ミルポーワだ」

 パトリックがスチャリと剣を抜いた。

 その剣先にキラキラとかがやく魔力が集まっていく。

 それを見たジョゼフィーヌが、怪物のように高笑いをして叫んだ。

「ハハハハハハハハ! 七紅天大将軍! 一度手合わせしてみたいと思っていたのだ! いい機会だ、イルカ族の名誉にかけて貴様を打ち取ってくれよう! 超級水流魔法・【アクアストーム】!」

 ジョゼフィーヌも魔力を練ると、暴風雨のように回転する水流を身にまとわせて突貫してきた。

 あんなのに直撃したら肋骨が二、三本折れてしまう。

 しかし、パトリックは余裕たっぷりの表情でその場に立っていた。

「パトリック!」

「大丈夫だ。すでに魔法は発動した――お前はもう斬られている」

「はっ……!? ぐあーーーーっ!?」

 ジョゼフィーヌがパトリックに激突しようとした瞬間、ジョゼフィーヌの体躯のほうが吹っ飛んでしまっていた。

 地面を二、三回バウンドしてゴロゴロ転がっていき、やがてミルポーワ家の擁壁にぶち当たって止まった。

 あまりにも一瞬すぎて目で追うこともできなかった。

 これが七紅天大将軍の実力なのか……と感嘆していると、パトリックが私の手をぎゅっと握って、相変わらずの不愛想な表情で見下ろしてきた。

「さあミミル。ゴンザレス子爵のもとへ向かおう」

「う、うん……今、何をしたの?」

「最強の魔法を発動した」

 すごい……

 パトリックは最強の魔法が使えるんだ……。

「み、ミミル様……、私は、貴女様のことを、想って…………」

 壁に激突して目を回していたイルカ人間が、うわごとのように何かをつぶやいた。

 ごめんねジョゼフィーヌ、後でゆっくり話そう。

 言葉を積み重ねれば、お前とも分かり合うことができると思うから。

 私はそのままパトリックに手を引かれ、ミルポーワ家の正門をくぐると、懐かしの前庭を駆け抜けていった。

 きらきらと輝くひまわりの群れ。

 きれいに整備された生垣、そして優雅な噴水。

 子供のころは、よくここで遊んでいたっけ。

「怖いか」

「……ううん。あなたが一緒にいてくれるなら……大丈夫……だと思う……」

 パトリックが少し笑った気がした。

 やがてミルポーワ邸に侵入する。

 驚いて逃げていくメイドや使用人たちの群れを掻き分けながら、猛スピードで屋敷の奥、つまり当主の部屋へと進んでいく……

 そして、ついに私はその人と再会することになった。

 私をオムギュンギュンの呪いで縛りつけた張本人、ゴンザレス・ミルポーワお父様。

「――ミミル!? 通信用鉱石で兵士たちから連絡があったので多少の事情は把握しているがまさか本当に抜け出してきたとでもいうのか!!」

「は、はい……パトリックに連れられて」

 お父様はワナワナワナと震えて私を睨みつけた。

 恐怖心に駆られ、私はパトリックの背中に隠れることを余儀なくされた。

 けれど、隠れている場合じゃないのだ。

 私はオムギュンギュン塔を抜け出した悪い子だ。

 だったら、最後までその信念を貫き通さなければならない。

 パトリックが一歩前に出た。

「……ゴンザレス子爵。あなたが自分の娘に施した仕打ちが、どれだけ悪逆であるかを理解していますか」

「貴様はナイトレッド将軍……! い、いったいミミルをどうするつもりだ!」

「俺はミミルを妻に迎えたいと思っています」

 トクンと心臓が跳ねた。

 ダメだ、気をしっかり持たなくちゃ。

「ミミルは美しい。俺の妻にするのに相応しいと思った」

「だ、だからといって人の娘をかどわかすやつがあるか! ミミルは私のモノだ、誰にも渡したりはせぬ! この子が傷つくようなことがあってはならぬ……!」

「……? ゴンザレス子爵、あなたは何を言っているんだ?」

 パトリックが不審そうに眉をひそめた。

 私も意味が分からず固まってしまった。

「すべて……すべてミミルを想ってのことだったのだ! ミミルは美しい、それも一京年に一度の美少女だ! そのまま放置しておけば、必ずや悲劇に見舞われてしまう!」

 それは……確かにそうかもしれなかった。

 私がパトリックを気絶させてしまったせいで、ミルポーワ家は非難されることになった。

 それは私にとっても不幸なことに違いなかった。

「だから私はミミルを誰の手も届かない場所に隔離しようと思ったのだ! たとえオムギュンギュンの呪いが解けたとしても塔からは出られないようにしておいた……あれはミミルに対する気休めみたいなものだったのだ」

「で、では、何故私には『お前は醜い』と言ったのですか……」

「『美しい』と本当のことを言ったら調子に乗るかもしれないだろう!?」

 それはないと思うんだけど……

 この人は私のことをわかってない……

「パトリック・ナイトレッド……! 貴様が塔に侵入していると聞いて、私は焦った……そのままミミルを連れ出されてしまったら、ミミルが悲しむことになるだろうからな!」

「だから監獄に移送する計画を立てたのか」

「その通りだ! だがこれは、ミミルのためを思ってのことだったのだ……許してくれミミル、私には悪気はなかったのだ……!」

 お父様は観念したのか、頭を下げて謝罪をしていた。

 パトリックが私のほうを振り返る。

 そうだ、謝罪をされたって、薄暗い塔の中ですごした三年間が消えるわけじゃない。

 私のことを想っていたから幽閉していた――それは余計なお世話だった。

 パトリックに連れ出されてわかったが、別に外に出たからって死ぬわけじゃないのだ。

 それに、今では私のことを考えてくれる人がいるのだから……

「お父様」

 パトリックに後押しされ、私は勇気を出して一歩前に出た。

「私のことを考えてくれてありがとうございます。でも方向性がズレています」

「ミミル! 違うのだ……」

 弁解の言葉を聞く必要は、今のところなかった。

 三年ぶんの思いを込めて、手を振り上げると…………

 ぴとり。

 軽いチョップを、お父様の頭に当ててやった。

 お父様は呆然とした顔で私を見つめていたが、私はくるりと踵を返すと、躊躇することなくその場から立ち去るのだった。

「さよなら」

 ☆

 それから数日が経った。

 私はあれ以来、オムギュンギュン塔に別れを告げて――何故かパトリックの実家、ナイトレッド邸でお世話になっている。

 窓の外に見えるのは、ナイトレッド邸の整備された優雅な庭園だ。

 小鳥たちが戯れる微笑ましい光景を見つめながら、私はメイドが運んできてくれたコーヒーカップを傾けた。

 それにしても、私はこれからどうなってしまうのだろう。

 行き場所がなくなってしまったので、一時的にパトリックのもとでお世話になっているが、ずっとこのままというわけにもいかない。

 あの人は私のことを「妻にする」とか言っていたけれど、冷静に考えてみると準備は全然できていないし、心の踏ん切りもついていないのだ。

 とりあえず、手に職をつけるために何か始めなくちゃだな。

 私は頭脳に自信があるから、学者とか向いているかもしれない。

 と、その時、部屋の扉がガチャリと開いてパトリックが入って来た。

「ミミル、相変わらず引きこもり気質なんだな。たまには外に出たらどうだ」

「私は部屋の中でゆっくりしているのが性に合っているんです」

「まあ、それなら別に否定はしないが」

 パトリックは溜息を吐いて椅子に腰かけた。

 ちなみに今日は土曜日だから、将軍の仕事はないと思われる。

「……何しに来たのですか?」

「顔を見に来たら悪いか? お前は俺の妻になるのだから」

「っ~~~// 妻になると決めたわけではありません!」

 私はぬいぐるみをパトリックの顔面に投げつけてあげた。

 彼はこともなげにそれをキャッチしてしまった。

 ……そう、私がこうして外に出ることができたのはパトリックのおかげなのだ。

 ちなみに外出する時はマスクを着用することになった。

 私のほうの顔を隠してしまえば、相手が絶叫して気絶することもない。

 だが――だからといって、パトリックの思い通りになってやるのは癪なんだ。

 この人は、ちょっと強引すぎてオオカミ気質なところがあるからな。

「ミミル。お前はよく頑張ったよ」

「そ、そうでしょうか。ていうかいきなり何ですか」

「三年間もあんな塔で方程式を解き続けてきた。お前はこれから自由に生きればいい」

「………パトリック」

「……何だ」

「助けてくれてありがとう。よければ、これからもよろしくお願いしますね」

「…………」

 カーテンがさわさわと揺れた。

 穏やかな風を浴びながら、私は少し火照った顔を冷ますようにパトリックから顔を背ける。

 この人の言う通りだ。

 これからは私のやりたいことをさせてもらうとしよう。

「……ふっ。言われなくてもお前の面倒はみてやるさ」

「妻にはなりませんけどね」

「いいや、俺はお前のことを愛している」

「あ、愛してるってそんな……」

「だからお前のいちごミルクはもらうよ。それが俺の愛の証でもある」

「っ……こ、こっちに寄るなヘンタイーーーーー!!」

 私は絶叫してベッドのほうに逃げた。

 パトリックがアハハとお腹を抱えて笑っていた。

 ……まったく、なんてケダモノなんだ。

 この屋敷にいたら、いずれ大変な目に遭う気がするぞ。

 でも……

 今までずっと、右辺と左辺が合っていなかった気がするが、最近はようやく釣り合ってきた気がしていた。

 生きることは、すなわち愛されること。

 ようやく私のことを受け止めてくれる人が現れたのだ。

 そしてパトリックの愛は、すなわち、いちごミルク。

 新しい人生を踏み出すとしたら、この人と一緒なら楽しいかもしれないな……

 私はベッドの中でもぞもぞしながら、新しく生み出された「いちごミルクの方程式」について思案するのだった。

 

【あとがき】
 テラコマリ・ガンデスブラッドです。物語の最後についている「あとがき」に憧れがあったので、私も書いてみようと思いました。
『いちごミルクの方程式』は、私が初めて起承転結を全部書くことができた物語です。趣味がたくさん詰まっているところもあります。もし『いちごミルクの方程式』がいつか公開されて、読んでくださる方がいたとしたら、そのあたりはご容赦ください……! 次回作はもっと精進します(文章表現を勉強したい!)。では、ここまで読んでくださってありがとうございました! 原稿用紙が余ったので、登場する人物を紹介してみます。

 ミミル……主人公です。内気で、引っ込み思案だけど、芯のある強い子です。いつも塔の中に引きこもっているけれど、本当はすごい才能を持っているんですよね。こういう子が報われてほしいなって思いながら書きました。『いちごミルクの方程式』の中ではいちばん好きなキャラクターです。

 パトリック……引きこもりのミミルを外に連れ出してくれます。ミミルはずっと外に出たいと思っていたのですが、彼との出会いによって夢が叶うことになりました。強くて、ちょっと強引なところがある最強の七紅天です。……でも、現実にこんな王子様みたいな人っていませんよね。

 ゴンザレス……ミミルのお父さんです。ミミルのことを愛しているけれど、それが曲がった方向にいってしまった、という感じです。お父さんあるあるですね。

 ジョゼフィーヌ……彼女は私が持っているイルカの抱き枕がモデルだったりします。こんなふうに喋るようになってくれたら毎日楽しいかなって思います。物語の中では、展開の関係上、戦うことになってしまいましたが笑 この後では、きっとミミルと仲直りしていると思います。裏話ですが、ジョゼフィーヌも実はミミルのことが大好きです。

©小林湖底・SBクリエイティブ/ひきこまり製作委員会